死とどう向き合うかを説く仏教と死を拒否するキリスト教 (1/4ページ)

心に残る家族葬

死とどう向き合うかを説く仏教と死を拒否するキリスト教

死の恐怖と悲しみは耐え難い。不慮の死に際して残された者はなぜ?と問わずにはいられない。そして結局は諦め、現実を受け入れるしかない。それは自分の死に対しても同じである。人は誰もが死ぬ。死んだ者は生き返らない。それは仕方ないことである。
しかし、誰がそんなことを決めたのか?本当に人は生き返らないのか?なぜ死などという理不尽を受け入れなければならないのか。多くの宗教が死をいかに受け入れるかを説く中で、世界最大の宗教は死を拒否する宗教であった。

■「儚さ」の美学

2019年 5月11日、靖国神社付近の路上で男性が自刃した。保守系団体の事務局長を務めていたこの男性が残した遺書によると、“上皇陛下が靖国参拝する環境を作れなかったことに対するお詫び”であったという(週刊新潮 2019年5月23日号)

自殺の中でも自刃という行為は武士の切腹を連想させ、ある意味潔さを感じさせるものがある。自殺はもちろん否定されるべきことであるが、自刃の持つロマンチシズムを理解する感性もまた否定できない。

自刃でなくとも、現代社会で自殺は日常茶飯事である。いわゆる「人身事故」のほとんどの内実が見投げであることは公然の秘密だろう。日本人は自殺者は多いことはよく言われることである。そこには確かに現代社会の病理を見いだすことができるものの、別の視点からは「儚さ」にひかれるという日本人の死生観が影響しているようにも思われる。

■「儚さ」を愛し、「儚さ」を多様に表現する日本人

先日テレビ番組で得た知識だが、桜は「散る」、椿は「落ちる」、菊は「舞う」、梅は「こぼれる」と表現するという。日本語の豊潤さを表していると同時に、刹那の生が美しく終わる「儚さ」を愛する日本人の心情が浮かび上がってくる。

西行(1118~90)の、「願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」、方丈記の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」など、日本人の儚さを愛すること非常に深いものがある。これらの文は仏教の無常感が大きく影響を与えているが、仏教が日本に受け入れられたのは「無常」「無」「空」といった思想を受け入れる土壌が元々用意されていたからではないか。

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