死とどう向き合うかを説く仏教と死を拒否するキリスト教 (2/4ページ)

心に残る家族葬



一方でこの美意識は、ある意味危険な側面もある。タナトス(死への誘惑)の訪問を容易にしてしまうことだ。

■死を拒否するキリスト教

同じ外来宗教でも日本におけるキリスト教の布教は現代に至るまで苦戦を強いられている。先進国でここまでキリスト教が布教していない国は無いと言われる。理由は様々だろうが、根本的に日本人には一神教は合わないのだろう。西欧文化を形成したキリスト教は仏教の「無」の思想に対して、唯一絶対なる神の存在がすべての根本として有る「有」の思想を持つからだ。

キリスト教も一様ではなく、カトリック、プロテスタント、オーソドックス(正教会)、イエス・キリストを神の子とは認めないユニテリアンのような流れもある。

いずれにしろ「無」を嫌い「有」を肯定する大前提にゆるぎはなく、人間にとって究極の「無」であるところの「死」をキリスト教は受け入れない。

■死を拒否する根拠は「復活の概念」

プロテスタント系神学者ピーター・バーガーは「死を拒否する」と断言する。

「わたしは、死は『自然』なのだから受容するべきだ、という安易な慰めを拒否する。断じて否である。死を受け入れてはならない。それは、人間の中心に『本質』、神の創造において意図された人間の本質への侮辱である」

死を受け入れる「儚さ」の美学は微塵も感じられない。我々からすれば死は必ずやってくるもので逃れようがない。これに抗うことは自然に反することで全く無駄な行いだと考える。仏教は諸行無常を説き、この世に対する執着から解き放つよう導く。さらには生も無ければ死も無いという境地にまで達した。「儚さ」を好み仏教の無常観を受容した日本人は最初からそんなことは考えない。

バーガーの言葉に比べると仏教のすべてを受け入れる方が潔さを感じる人の方が多いだろう。しかしキリスト教は悪あがきをしているわけではない。キリスト教には死を拒否する根拠がある。「復活」の概念である。

■復活によって滅ぼされた死

イエス・キリストは一度は死んだが、後に復活した。つまりイエスは「死を滅ぼした」のであり、死に対する勝利者となった。
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