死とどう向き合うかを説く仏教と死を拒否するキリスト教 (3/4ページ)

心に残る家族葬

そして世界の「終わり」の日、イエスは再び我々の前に現れ、これまでの死者の復活が約束されている。「復活」が根底にある以上、「死」はあくまで「その日」が来るまでの眠りに過ぎない。

宗教とは根本的に他界や死後生を説くもので、仏教ですら浄土思想などが展開されている。無学な庶民にとって生死を超越する「哲学」は難解で、結局は「他者」にすがりたくなるものだ。それを受けた仏教側も阿弥陀如来などの「他者」や、極楽浄土などの「他界」を用意したのだが、この論でいうと他者も他界も、死を克服するための方便として後付けされた感が強い。

これに対してキリスト教の独自性は絶対的他者である神ではなく、神の子イエス・キリストが「現実に」復活した「事実」にある。つまりキリスト教においては正確には、死はすでにイエスによって滅ぼされており、死などというものは存在しない。存在しないものを受け入れる必要などなく、これに反することは神への背信ということになる。キリスト教を信じることは死を拒否することとイコールになっており、一貫としていてブレがない。

バーガーが死を拒否するなどと、ことさらに強調するのは、死は自然なものであり抗ってはいけないという東洋的な死生感が、スピリチュアルな響きを持って高まっている昨今の風潮に対する反発であろう。

■本音に迫るキリスト教

キリスト教は人間の本音に迫っていると思われる。死が教えることは大きいとされる。よくガンになって良かったと語る人がおり、死と向き合うことで命の大切さ、かけがえのない家族の存在などを知り、残りの人生を豊かに生きられるようになったと述べる。

そのことに偽りはないにせよ、それは「本気」ではあっても「本音」であろうか。意地悪な発想だが、その人に確実に完治する特効薬を与えたならほとんどの人は飲むのではないか。

これは否定することではない。人間は弱いものである。無理だからこそ受け入れ、そこに何らかの意味を創出せざるをえないのであって、助かるなら助かりたいのが本音だ。

日本人(東洋人)は豊かな自然に抱かれ、最期は自然に還ることを漠然と考えている。他方、やはり理性・自我を持つ限り己の死を恐れる気持ちは捨てがたい。キリスト教にはその矛盾がない。

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