歴代総理の胆力「寺内正毅」(1)「ビリケン宰相」と呼ばれた理由 (1/2ページ)

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歴代総理の胆力「寺内正毅」(1)「ビリケン宰相」と呼ばれた理由

 前任総理の山本権兵衛が「帝国海軍の父」だったのに対し、こちら寺内正毅は元老・山県有朋が基礎を作った帝国陸軍を確立した人物であった。しかし、陸軍元帥までのぼりつめ、陸軍大臣を三つの内閣で経るなど軍人としては一級だったが、総理大臣としてはあまりに国家観に欠け、国家戦略もまた持ち得なかった。さらに、国民への目配りも欠落、ために世論から背を向けられた形で、約2年で政権の座を追われたものだった。

 こうしたタイプのリーダーは現今の企業などにもおり、狭い企業理念にとどまり、自らの得意分野でひたすら突っ走るが、企業環境の変化に対応できず業績悪化の前に社長退陣を余儀なくされるということである。ここでは世論すなわち社員の圧倒的多数から背を向けられ、もはやその座に踏みとどまることが難しいという状況がある。

 さて、この寺内が内閣を率いることができたのは、第一次世界大戦のさなか、同じ長州の先輩でもある政権誕生に圧倒的影響力を持っていた山県有朋の、強い天皇への奏薦があったことによる。

 政党は「憲政の常道」として加藤高明(かとうたかあき)(のちに総理大臣)を推したが、山県は「いまや国家危急の際、中正の人を推した」として寺内を指名したものだった。このいささか強引なやり方に加え、総理の寺内が「超然内閣」として政党に基盤を持たない藩閥・官僚で内閣を固めたことで、寺内内閣はスタートから世論に背を向けられることになる。

 それは以後の政権運営で「ビリケンはけしからん」と、ことごとく世論の反発を招くことにもなったのだった。

「ビリケン」とは、頭のてっぺんが光ったツルツル頭の米国生まれのキャラクターを指すのだが、寺内は風貌がよく似ていたことで「ビリケン宰相」と呼ばれていたのだった。寺内は30歳を過ぎた頃から、急に髪が薄くなり始めたのである。

 一方、「ビリケン宰相」たるもう一つの理由があり、「超然内閣」として「非立憲内閣」だったことから、世間はこれを「非立憲(ビリケン)内閣」と読み、この二つで「ビリケン宰相」が定着したということだった。

 それでは「非立憲内閣」の仕事ぶりはと言うと、内閣は第一次大戦の戦争総力体制の構築を目指したことから、軍備増強予算のための増税が眼目となった。

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