日本のシェークスピアこと近松門左衛門を埋葬したとされている唐津市の近松寺 (2/7ページ)

心に残る家族葬

その結果、従来の、「血が通わない」人形による「語り物」ではなく、人形であるにも関わらず、人間と同様の「情」がこもったドラマとしての「語り物」演劇へと転換させることに成功したのだ。

■近松門左衛門の辞世

70歳を過ぎたぐらいから病気がちになった近松は、作品数も減っていき、『関八州繋馬』(1724年)を絶筆として、大坂・天満で72歳の生涯を閉じた。死の十数日前、自らの死を察した近松による自筆と言われる辞世の文は自らの一生を軽妙に振り返った。

「代々甲冑の家に生れながら武林を離れ、三槐九卿(さんこうきゅうけい)につかへ、咫尺し奉りて寸爵なく、市井に漂て商売知らず、隠に似て隠にあらず、賢に似て賢ならず、ものしりに似て何もしらず、世のまがひもの…(略)…」


そして、辞世の句もまた同様だった。

「それぞ辞世去程に扨(さて)もそのゝちに残る桜が花し匂はゞ
残れとは思ふもおろか埋(う)み火の消(け)ぬ間あだなる朽木書(くちきが)きして」

近松は自らの作品、人生そのものを「脆い消し炭や焼き筆で下絵を描くこと」と突き放した姿勢で見つめていたことがうかがい知れる。その近松の墓は、兵庫県尼崎市の広済寺と大阪市中央区の法妙寺にある…。

■どうして佐賀県唐津市に近松門左衛門の墓があるのか

近松が活躍していた当時、すなわち江戸時代中期は、浄瑠璃や歌舞伎を含む芸術・芸能文化の中心だったのは、幕府が置かれていた江戸よりも、京大坂だった。それゆえ、「近松門左衛門の墓」と言えば、今日の我々の「イメージ」としては、漠然と、関西地方に所在しているように思われてきた。そして実際に、兵庫と大阪に墓がある。しかし、近松が活躍していた京大坂から遠く離れ、近松と何の縁もゆかりもなさそうな佐賀・唐津に何故、近松の墓があるのだろうか。

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