日本のシェークスピアこと近松門左衛門を埋葬したとされている唐津市の近松寺 (3/7ページ)

心に残る家族葬



■佐賀県唐津市の歴史と近松寺の寺伝


佐賀県唐津市を含む東松浦地域、そして現在の福岡県糸島(いとしま)市や、福岡市西区は玄界(げんかい)灘に面していることから、古代から、中国大陸や朝鮮半島との関わりが深い「場所」だった。弥生時代中期には、遺体の埋葬方法として甕棺(かめかん)を採用し、副葬品として多くの青銅器も埋葬されていたことから、大陸文化の受容、そして交流が、日本各地よりもいち早く行われていたことが判明している。その後、遣唐使派遣や倭寇、そして豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592〜1593、1597〜1598)の拠点でもあった。しかも「唐」(中国)の「津」(船着き場)を意味する「唐津」という地名の由来だが、11世紀後半〜12世紀にかけて、宋代の中国人が集住した地域である「唐房」が博多に形成されていたことと同様の状況が東松浦地域にもあったと推察されることから「唐人の津」が、「唐津」になったのではないかと考えられている。しかも、このような唐津だが、江戸期においては、他の地域とは異なり、長期に渡る藩主の一大支配がなされなかったまま、明治維新を迎えたのである。しかし、初代藩主・寺沢広高によって、慶長12(1607)年から5年の年月をかけて唐津城が築城され、城下町も整備されていった。

そして近松寺は、臨済宗南禅寺派の禅寺である。寺伝によると、鎌倉時代後期の乾元元(1302)年に創建された。松浦7か寺の1つに数えられていたが、1541(天文10)年、日本初の禅寺である博多・聖福寺(しょうふくじ)の住持で、遣明正使でもあった頣賢碩鼎(いけんせきてい)が招聘され、再興された。戦火による焼失を経て、1596(慶長元)年、唐津を鎮めた寺沢広高に対し、住職として聖福寺から招かれていた耳峯玄熊(じほうげんゆう)が近松寺の復興を条件に、外国通辞(つうじ、通訳のこと)の任に当たることとなり、現在地に移転した。寺沢家の断絶後にまたも衰微したが、第4世・遠室明超(えんしつみょうちょう)が3代将軍・徳川家光に寺の隆盛を懇請した。
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