日本のシェークスピアこと近松門左衛門を埋葬したとされている唐津市の近松寺 (6/7ページ)

心に残る家族葬

そして肥後国益城(現・熊本県宇城市)出身の鐡眼道光(てつげんどうこう、1630〜82)と共に学んでいた。長じて後、2人は京大坂で再会した。黄檗宗の名刹である長崎・東明寺の隠元(1592〜1673)の元で禅僧となっていた鐡眼は、寛文4(1664)年から、飢えに苦しむ畿内の人々のために『大蔵経』を刊行することを発願し、施財を集める全国行脚の旅に出ていたところだった。そのことを聞いた近松は、鐡眼の行っていることに匹敵することを探し求めた。その結果、ついに、浄瑠璃の作者となって名を成した。片山文器曰く、その話が信用できる話かどうか、わからないが…と。

■最後に

今日の我々にとって「お墓」とは、死者を地中に埋葬した後、他者・他家のものと区別するため、目印として、「○○之墓」「○○家代々之墓」と彫られた石を立てることが「当たり前」の、「唯一無二」のものである。

しかし「お墓」はそればかりではない。地域を代表する著名人をいつまでも忘れない、そして後世に語り継ぐための「モニュメント」としての役割を果たしている場合も少なくないのだ。唐津・近松寺の近松の墓の場合は、唐津という「場所」を際立たせる『博多小女郎波枕』などの作品を残したばかりではなく、幼い頃に唐津・近松寺で遊学したという言い伝えも残っているがゆえに、多くの唐津の人々に親しまれてきた近松を偲び、かつ、讃える役割を果たしてきた。その点において、唐津・近松寺の墓は「本物」だと言えるのではないだろうか。

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