日本のシェークスピアこと近松門左衛門を埋葬したとされている唐津市の近松寺 (4/7ページ)

心に残る家族葬

それによって100石の寄進を受け、寺勢は盛り返し、今日に至っている。

■近松門左衛門の墓は全国七箇所にも及んでいるが唐津市にある理由とは

「近松門左衛門の墓」と伝えられているものは、先に述べた尼崎の広済寺、大阪の法妙寺に加え、同じく大阪市西成区の小さな神社・松乃木大明神の境内にある碑、そして佐賀県内では、唐津市の近松寺、同じく東松浦郡七山村(現・唐津市)の、先祖は源融(みなもとのとおる、822〜895)まで遡り、近松と血縁があるという鶴田家の墓域、更に杵島郡山内町(現・武雄市)の、近松と家系がつながっているという杉森家の墓域。更に長崎県東彼杵郡(ひがしそのぎぐん)の宮村(みやむら、現・長崎県佐世保市)と、7箇所にも及んでいる。もしかしたら、他にも近松の墓とされるものがあるのかもしれない。

唐津市の近松寺の墓のいわれは、以下の通りである。先に述べた遠室が、徳川家光に請願のため江戸に赴いた際、帰路の下関の宿で、幼い頃の近松門左衛門と偶然に出会った。近松の利発さに心打たれた遠室は、近松を連れて近松寺に戻った。そこで近松は遠室に帰依し、勉学に励んだ。年を経て、近松は京に上り、還俗して、浄瑠璃や歌舞伎の大作者となった。しかし近松は遠室、そして近松寺のことをずっと忘れずにいた。それゆえ遺言によって、近松寺に葬られたというものだ。

寺内の墓石には、後につくられた可能性もあるというが、「印海祖門上座(近松のこと)は長門国深川の人である。当山第四世の遠室禅師に従って業を授けられて得度した。学識共に卓絶していた。その後、京都に遊び姓名を変え、近松門左衛門と称し、浄瑠璃の台本を著作することを業とした。享保九甲辰年十一月二十二日に浪華で亡くなった。遺言によって当地の墓地に葬られた。享保十乙巳年六月二十二日 当山六世現住鏡堂これを識す」と彫られている。

■近松寺と近松門左衛門の関係

この話の根拠となるものの第一に、近松の生誕地が越前ではなく、比較的唐津に近い長州(現・山口県)だという説がある。

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