日本のシェークスピアこと近松門左衛門を埋葬したとされている唐津市の近松寺 (5/7ページ)

心に残る家族葬

それは江戸時代中期〜後期の御家人かつ文人の大田南畝(なんぽ、1749〜1823)の著書『仮名世説』(1825年)によると、ある時南畝は、浄瑠璃好きで近松のファンであった大坂の好事家に依頼され、近松のために碑文を書くことになった。その碑文に、「近松は長門萩(現・山口県萩市)の生れにて」という文言があった。この碑そのものはどこかに建立されることはなかったようだが、大正11(1922)年、大阪・法妙寺に、『仮名世説』に記された文章を刻んだ碑が建てられた。このことが後々、近松の生誕地として長州が信じられる大きな要因となったという。こうしたことから、越前ではなく長州で生まれた近松が、唐津・近松寺の遠室禅師と偶然の出会いをしたと考えられるようになった。

そして近松の作品に、明朝の中国と長崎・平戸を舞台とした『国性爺合戦』(1715年)、実在の博多の豪商で、唐津や長崎で明や朝鮮との国際貿易を行なった伊藤小左衛門(?〜1667)を主人公とした『博多小女郎波枕』(1718年)のように、当時としては珍しい、「国際的」かつ、スケールの大きなものがあること。そして、現在の佐賀県武雄市と西松浦郡有田町の間にある黒髪山(くろかみざん)に古くから伝わる伝説、「鎮西八郎源為朝(1139〜1170)の大蛇退治」を、滝沢馬琴(1767〜1848)の『椿説弓張月』(1897年)よりも前に、近松が浄瑠璃にしたと伝えられているところから、近松と「唐津」の「距離の近さ」「思い入れの深さ」ゆえに、自らの墓所として唐津・近松寺を希望したというものだ。


■近松寺の墓が近松門左衛門かどうかについては森鴎外も言及している

明治の文豪・森鷗外(1862〜1922)が、小倉第12師団軍医部長当時の明治34(1901)年5月20日、徴兵検査の視察後に近松寺を訪れ、近松の墓を精査した。鷗外は、『小倉日記』(1899〜1902)の中で、墓の足石部分に刻まれた文を書き写す際に「文は諸書に載すと雖、其の或は誤脱あらんことを慮りて謄写す」と、近松の墓の真偽の「判定」に関しては慎重な立場を取っていた。

小倉に戻った後、鷗外は近松にまつわる話を、小倉・堺町にかつてあった東禅寺の僧・片山文器から話を聞いている。それによると、近松はもともと、僧職だった。

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