横浜山手外人墓地の運営状況やできた経緯、埋葬されている方々を調べてみた (2/3ページ)
28基のお墓の埋葬者の説明付きの順路案内図をもらい公開されている傾斜地の一段目と二段目を約30分かけて見て回った。この区画には明治初期の日本の近代化に貢献した人々が多く葬られていたが、名前を知っている人物は最初の外国出身落語家の快楽亭ブラックだけだった。古い十字架のお墓が多いが、中にわずかだが新しいお墓があり、そこはステンレスの花立にお花があり、お供えがあったりする。傾斜地の下のほうにはイスラム教徒のお墓もあるとのことだが、見ることはできなかった。
■横浜山手外人墓地はどのような経緯でできたのか
1854年開国を求めて日本を再び訪れたペリー提督率いる黒船ミシシッピ号でロバート・ウィリアムズという水夫がマストから甲板に転落して死亡したので、ペリーは幕府に埋葬地の提供を求めて、日本側が用意したのが、増徳院というお寺の附属地でペリーの要求する海の見える場所であった。これが横浜山手の外人墓地の始まりである。
その後、横浜開港に伴い来日する外国人の数は次第に増加し、日本で死亡する人も増えてきた。このため増徳院の外国人埋葬地と日本人埋葬地の区別がつきにくくなり、1861年、外国人専用の墓域を定めるため日本人墓地が移転した。
1864年、横浜居留地覚え書が幕府とアメリカ、イギリス、フランス、オランダの各国公使との間で締結され墓域の拡張が認められた。1866年、横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書が締結され、ほぼ現在の墓域まで拡張された。1879年神奈川県衛生委員会は墓地周辺に人家が接近し、伝染病死人の埋葬地がないことから、墓地の移転もしくは新墓地の開設を建議し、1902年根岸に新たに墓地を開設した。外人墓地は初めから無償無税で貸与され、墓地周囲の垣根などにいたるまで幕府や明治政府が負担していたが、明治維新後経費が増大したため1869年政府は外国側が負担とすることを決めた。1902年外国人はわが国の法規に従って公益法人を組織し自ら墓地を維持運営することとなり現在に到っている。横浜には山手、根岸の他に英連邦戦死者墓地と中華義荘の外人墓地がある。