アラ還女性が「いざ鎌倉!」息子への愛情と遺産相続の執念を詠み綴った「十六夜日記」 (2/5ページ)
一、タイトルは日記が10月16日付(十六夜)で始まっていたことに由来するが、阿仏尼自身がつけた訳ではなく(特に名前をつけておらず)、当初は『阿仏日記』などと呼ばれていた。
……この位おさえておけば「十六夜日記?まぁ、ちょっとは知っているよ」と言えるのではないでしょうか。
これ以上の興味がなければこれで解散してもいいのですが、せっかくなので阿仏尼の略歴や、彼女の詠んだ和歌などもお付き合い頂けると嬉しいです。
アラ還だって気にしない、息子のためなら「いざ鎌倉」!阿仏尼は鎌倉時代前期の貞応元1222年ごろ、桓武平氏の流れをくむ奥山度繁(おくやま のりしげ)の娘として生まれました。幼少の頃から安嘉門院(あんかもんいん。邦子内親王、高倉天皇の孫)にお仕えしたことから、利発な子だったと見られます。
10代で初恋を経験して宮中の一隅を彩ったそうですが、あえなく失恋。そのショックから出家して阿仏尼と称します。随分と思い切った性格だったようです。
しかし転んでもただでは起きず、失恋エピソードを日記にまとめたものが後世『うたたね』として伝わっています。
また、出家しても世俗との交流は盛んに続け、三十路ごろに藤原為家の側室として嫁ぎますが、それまでの十年余りの間にも、何かしら恋愛エピソードが隠されていそうです。
ともあれ夫婦生活はそれなりに円満で、阿仏尼は冷泉為相らを生みますが、夫・為家が高齢になると、そろそろ遺産相続が気になります。
「あなた、為相に播磨国細川荘(現:兵庫県三木市)の領地を……」
「……お前の望みは叶えてやりたいが、あそこは既に為氏(正室の子)へ譲ると言ってしまったからなぁ……」
一度はそう断った為家でしたが、阿仏尼の度重なる懇願に心が揺らぎ、ついに臨終を前に「やはり、細川荘は為相に……」と遺言。