城が欲しくば力で奪え!戦国時代、徳川家康と死闘を繰り広げた女城主・お田鶴の方【下】 (3/6ページ)
現:静岡県周智郡森町)を治める武藤刑部丞氏定(むとう ぎょうぶのじょう うじさだ)の伝手を頼って甲斐・信濃国(現:山梨県、長野県)の武田信玄(たけだ しんげん)に臣従を申し出ます。
産んだばかりの嫡男・飯尾義広(よしひろ)を抱えながら、所領を切り盛りする激務をこなす日々が3年ばかり続いた永禄十一1568年12月、三河国(現:愛知県東部)を制圧した徳川家康(とくがわ いえやす)が、曳馬城へと攻め寄せて来たのでした。
城が欲しくば力で奪え!お田鶴の方が示した武士の在り方さて、曳馬城下へ到着した徳川家康はいきなり攻めるような事はせず、後藤太郎左衛門(ごとう たろうざゑもん)を使者に立て、お田鶴の方に帰順するよう勧告しました。
「無駄な血は流しとうない……城さえ明け渡さば、所領は安堵いたそう」
女子(おなご)はとかく安定を求め、我が子が可愛いもの。義広へ譲る所領さえ安堵してやれば、容易く降(くだ)るであろう……そう踏んだ家康の下にはお田鶴の方の実家・鵜殿一族も臣従していました。
しかし、お田鶴の方は首を縦には降りません。
「使者殿……鵜殿の者どもに伝えるがいい。我が兄(鵜殿長門守藤太郎長照)を裏切ったこと、断じて許さぬ!」
「……承知」
「……そして、徳川殿にお伝えせよ。