城が欲しくば力で奪え!戦国時代、徳川家康と死闘を繰り広げた女城主・お田鶴の方【下】 (6/6ページ)

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かくして曳馬城は陥落、やがて遠州は徳川の支配下に呑み込まれていきます。

後日、その話を聞いた家康の正室・築山殿(つきやまどの)は、お田鶴の方を悼んで侍女たちと共に葬られた塚の周りに、百本の椿を植えました。

椿は毎年綺麗な花を咲かせたため、いつしかお田鶴の方は「椿姫(つばきひめ)」と呼ばれるようになり、やがて観世音菩薩も祀られたことで「椿姫観音」として、今も浜松の人々に親しまれています。

【完】

※参考文献:
中山和子『三河後風土記正説大全』新人物往来社、1992年
楠戸義昭『井伊直虎と戦国の女城主たち』河出文庫、2016年
御手洗清『家康の愉快な伝説101話』遠州伝説研究協会、1983年

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