戦国時代、いかなる権力にも屈せず火炎の中に没した気骨の禅僧・快川紹喜の生涯 【その1】 (1/3ページ)
戦国末期、武田信玄の信任厚く、皇室からも国師の称号を得た高僧・快川紹喜(かいせんじょうき)。
臨済宗妙心寺派の法灯を守るため、斎藤義龍、織田信長との確執にも一歩も引かず、最後まで信念を貫いた気骨漢として知られています。
その最期は、信長の要求に屈せず、焼き討ちを仕掛けられた恵林寺にて、毅然とした様子で火炎の中に没しました。そんな快川国師の生涯を紹介しましょう。
武田勝頼の滅亡と恵林寺の危機 織田軍に追い詰められ重臣の裏切りにあい自害した勝頼1582(天正10)年、武田信玄菩提寺である甲斐国・恵林寺は極度の緊張状態に包まれていました。
その年の2月、武田勝頼討伐に動き出した織田信長は、嫡子信忠を総大将に約3万の軍勢を甲州に派遣します。
織田軍は、わずか1か月で美濃・信濃・甲斐を席捲。追い詰められた勝頼は、天嶮の要害・岩殿城に籠城しようとするも、重臣小山田信茂の裏切りにあい、天目山で自害しました。
ここに清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏の嫡流は滅亡したのです。
織田氏による武田の残党狩りに屈せず武将の逃亡を助けたその後、織田軍は、信長の甲府到着を待って執拗に武田の残党狩りを行います。
当時の甲府には、織田家に敗れた多くの武将たちが身を寄せていました。