源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【三】 (2/6ページ)
歴戦の勇士として東国の後見を務め、頼朝の動きにも目を光らせていた大庭景親。
なぜ近江国(現:滋賀県)の住人が東国に住んでいるのかと言えば、この秀義、20年前の平治の乱(平時元1160年)に敗れて奥州(現:東北地方)へ逃れる途中、相模国で渋谷庄司重国(しぶや しょうじしげくに)と意気投合。
「貴殿の武勇は聞き及んでおる。敵方ながら真に天晴れなるご活躍……是非とも当方にご逗留下され」
重国は平治の乱において平清盛(後白河上皇派)に味方していましたが、戦が終われば恨みっこなし……という訳で、秀義は渋谷の地(現:神奈川県大和市)で20年間にわたる居候生活を送っていたのです。
それも一家総出と言いますから、図々しいにも程がありますが、この秀義もよほどの人徳を備えていたか、あるいは何らかの形で貢献していたのかも知れませんね。
で、そんな秀義に景親が何の用向きかと言いますと……。