百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【下】 (4/9ページ)
「……まぁまぁ、勝敗は武門の習い……敗戦の教訓を次の勝利に活かすことこそ、知略の礎にございまする」
「……そうだな」
その後、秀次は天正十四1586年の九州(島津氏)平定、そして天正十八1590年の関東(北条氏)征伐に武功を立て、子供のいない秀吉の後継者としての信頼を再び築き上げていったのでした。
よく秀次を盛り立てた久兵衛も戦功によって三河国岡崎城57,400石(現:愛知県岡崎市)の所領が与えられ、ついに城持ち大名となるのですが……。
秀次の切腹に際して、殉死よりも奉公を選ぶ「……殿下!」
時は文禄四1595年7月15日、秀次が秀吉から切腹を命じられます。それまで秀吉の後継者として関白の位も譲られていたにも関わらず、文禄二1593年に実子・拾丸(ひろいまる。後の豊臣秀頼)が生まれるや、途端に疎まれてしまいました。
それで自棄を起こした秀次は欝憤晴らしに人を殺したり、比叡山の女人禁制を犯したりなど悪行三昧に走り、挙句の果てには秀吉に対する謀叛を企んだ……として関白の職を剥奪され、切腹に追い込まれたのです。
言うまでもなく久兵衛は筆頭家老として諫め続けてきましたが、いっさい聞く耳を持ってもらえないまま、最後は対面すらも叶いませんでした。