百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【下】 (6/9ページ)
「きっと治部(秀吉子飼いの寵臣・石田三成)と組んで仕組んだに違いない!」
「日ごろ善人ヅラしてその陰で主君を陥れるなど、武士の風上にも置けぬ!」
「そうだ、久兵衛に腹を切らせるべし!」
真に主君を思うのであれば、たとえ咎がなくとも、その死に殉ずる(後を追って死ぬ)べし……そうした武士たちの価値観を理解しない訳ではありませんでしたが、久兵衛は忠義のパフォーマンス(殉死)よりも、生きて天下公益に供することを選びます。
豊臣家中ではさぞや針の筵(むしろ)だったことでしょうが、天地神明に恥じることなければ、誰が何と言おうと奉公に励むまで……そして翌文禄五1596年、久兵衛は更に加増されてついに10万石の大大名に仲間入りしたのでした。
関ヶ原の戦功で、ついに一国一城の主に!そして慶長三1598年には秀吉も亡くなり、次なる天下人の座を狙う徳川家康と、豊臣家の天下を死守する石田三成が雌雄を決する関ヶ原の戦い(慶長五1600年)が勃発。
久兵衛は家康率いる東軍に属し、前哨戦である岐阜城の攻略、そして関ヶ原の決戦でも黒田長政(くろだ ながまさ。黒田官兵衛の嫡男)と共に三成率いる西軍本隊と激突。大いに武勲を上げたのでした。