我が肌は上様だけのもの…徳川家光への男色に殉じた堀田正盛の壮絶な最期 (3/5ページ)

Japaaan

寛永三1626年(18歳)
……小姓番頭に就任、加増されて1万石の譜代大名に

寛永十1633年(25歳)
……六人衆(後の若年寄)に就任、加増されて2.5万石の城主格に

寛永十二1635年(27歳)
……老中に就任、加増されて3.5万石の城主(武蔵川越藩主)に

寛永十五1638年(30歳)
……大政参与として老中の実務を免除され、加増されて10万石(信濃松本藩主)に

寛政十九1642年(34歳)
……加増されて11万石(下総佐倉藩主)に

これは正盛が春日局の孫に当たることを加味しても異様な早さですが、その一方で悲劇も生み出してしまいます。

正盛の父・堀田正吉(まさよし)は、嫡男のスピード出世を喜ぶ一方で、それを妬む者たちにとって攻撃の的となっていました。

「……卑しい家柄のくせに!」

本人に手が出せないなら、その親しい者を攻撃するのがいじめのセオリーですが、身分の低い自分が足手まといになりたくない……そう思った正吉は、寛永六1629年に自害してしまったのです。

息子の栄達を願い、足手まといとならぬよう自害した正吉(イメージ)。

「父上……っ!」

悲しみに沈んだ正盛が選んだのは、陰険卑劣な連中に対する復讐ではなく、より一層奉公に精進し、御家と子孫を繁栄させること……果たして異例の大出世を果たし、5人の男児にも恵まれてそれぞれ栄達したのでした。

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