我が肌は上様だけのもの…徳川家光への男色に殉じた堀田正盛の壮絶な最期 (4/5ページ)

Japaaan

長男・堀田正信(まさのぶ)……正盛の後継者
次男・脇坂安政(わきざか やすまさ)……信濃飯田藩主など
三男・堀田正俊(まさとし)……大老、下総古河藩主など
四男・堀田正英(まさひで)……若年寄、常陸北条藩主など
五男・南部勝直(なんぶ かつなお)……陸奥盛岡藩主(ただし夭折)

武家の次男坊以下というものは、一生涯にわたって冷や飯食いを強いられがちですが、五人が五人とも藩主の地位を用意されたのは、それだけ家光の恩寵が深かった証左と言えるでしょう。

上様が愛したこの肌を……家光の死に殉じた正盛

さて、そんな正盛は慶安四1651年4月20日に愛する主君・家光が亡くなると、その日の内に切腹、殉死してしまいました。享年44歳(※誕生日前なので、満年齢+2歳でカウント)。

男色によって出世した者は、主君の死に殉じなければならない……もちろん不文律ですが、ここで命を惜しんだら、待っているのは次期主君による冷遇と、周囲からの迫害ばかり……「二代にわたっていい思いをするなんて許せない」という一種の圧力があったようです。

しかし、正盛は言われるまでもなく、むしろ止められても「後を追う」気満々だったようで、家光の危篤に際してはすぐに腹を切れるよう、万端の準備を整えてありました。

「……しからば」

「うむ」

いよいよ切腹の段となりましたが、正盛は(普通は上半身をはだける)死に装束を脱ごうとしません。

「いかがなされた……上を脱がねば腹が切り難かろう」

まさか、この期に及んで命が惜しくなったのではあるまいな……介錯人(切腹した者が長く苦しまぬよう、斬首してやる役)が内心で嘲笑ったところ、正盛はこう言いました。

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