江戸時代、大飢饉に襲われた伊予松山藩…ピンチの時にこそ問われるリーダーの真価 (2/5ページ)

Japaaan

米の収穫高……ゼロ(!)
餓死者……3,489名(男性2,213名/女性1,276名)
餓死畜……3,097頭(牛1,694頭/馬1,403頭)

※『垂憲録拾遺』より、享保十七年11月29日届出分。

ほか松山藩士の随筆『却睡草』では餓死者4,789名、幕府による被災記録『虫付損毛留書』では5,705名とされており、幕府記録との差が水増し分と推測されます。ちなみに『日本災異志』では全国の餓死者を12,072名としています。

ちなみに、南海道(※四国+淡路島+紀伊国)全体では餓死者9,307名、餓死畜5,450頭となっており、伊予松山藩だけで餓死者の37.4%、餓死畜の56.8%を占めていることになり、水増し分を差し引いても、凄まじい被害です。

至るところに死者があふれた(イメージ)。

しかし、驚くのはこれだけに留まりません。三千名から五千名以上とも言われる犠牲者を出しているにも関わらず、藩士の餓死者はゼロ。つまり、犠牲となったのは民百姓ばかり。

これには日ごろ「民は生かさぬよう、殺さぬよう」を施政のモットーとしている幕府も流石に激怒、松平定英は十分な予防策を講じなかった怠慢と領民からの搾取を咎められ、差控(謹慎処分)に処せられます。

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