江戸時代、大飢饉に襲われた伊予松山藩…ピンチの時にこそ問われるリーダーの真価 (4/5ページ)

Japaaan

作兵衛を家に担ぎ込んだ村人たちは、彼が大切にとっておいた麦種の俵を見つけ「背に腹は代えられないから、その麦を食べた方がいい」と勧めるものの、作兵衛は承知しません。

「その麦種はみんなに蒔(ま)いてもらおうと貯めたものだ。いま自分が食べてしまったらそれっきりだが、みんながこれを蒔いてくれれば、来年には百倍にも千倍にも増やせる。だからどうか、みんなで命をつないで欲しい」

自分の死期を悟った以上、せめて娘たちや、みんなだけでも生き延びて欲しい。そんな作兵衛の心意気に打たれた村人たちは、どんなにひもじくても決してその麦種には手をつけず、大切に蒔くことで飢饉を乗り切ったのでした。

かくして作兵衛は餓死(享保十七1732年9月23日。享年45歳)。その翌月にはカメ(享年16歳)が、2年後には次女が亡くなったことにより、一家は全滅してしまいます。

作兵衛の死。『凶荒誌』より。

この話を聞いた伊予松山藩は筒井村の年貢を減免、また作兵衛の死から45年が経った安永六1777年には第8代藩主・松平定静(さだきよ)は作兵衛の功績を後世に伝えるべく「義農(ぎのう)」と称賛。石碑を建立しました。

更に明治時代に入ると作兵衛を御祭神として祀る義農神社(現:愛媛県松前町)が創建されるなど、彼の心意気を現代に伝えています。

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