江戸時代、大飢饉に襲われた伊予松山藩…ピンチの時にこそ問われるリーダーの真価 (3/5ページ)

Japaaan

謹慎と言っても現代のように自宅でゴロゴロしていれば良いというものではなく、その責めがあまりに厳しかったためか、翌享保十八1733年4月19日に赦免されるも、5月21日に38歳という若さで急死してしまいました。

受け継がれる義農作兵衛の精神

これだけだと「やれやれ、為政者の中にはロクでもないヤツもいるんだね」で話が終わってしまいますが、伊予松山藩の中にもひとかどの人物はいました。その名は作兵衛(さくべゑ)、筒井村(現:愛媛県松前町)に住む農民です。

作兵衛は貞享五1688年2月10日、貧農であった作平(さくべいorさへい)とツルの息子として生まれました。

「どんな痩せた土地であっても、丹精込めて手入れをすれば、必ずよい田畑となった豊かな実りをもたらしてくれる」

「真面目にやってりゃあ、お天道様も見てござろ」今日も野良仕事に精を出す若き日の作兵衛(イメージ)。

つまり「努力は必ず報われる」という日本人らしい信念を実践していたため、人々から敬慕されていたそうで、やがてタマを妻に迎え、長男・作市(さくいちorさいち)と長女・カメ、次女(名前は不明)の一男二女に恵まれます。

しかし、享保の大飢饉によって田畑は全滅。前年にタマを亡くしていたところへ、作平と作市が相次いで餓死。それでも残された娘たち(ツルはすでに死亡)を食わせるために働き続けた作兵衛も、とうとう倒れてしまいました。

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