マンソン・ファミリーが関与したとされる10の死の謎 (6/8ページ)
部屋には遺書はなかったが、鏡にジャック・アンド・ジルという文字が書いてあったのをホテルのマネージャーが見ているが、警察はこれを記録しておらず、ドラッグが原因の自殺と断定した。
この“自殺”が起こった頃、マンソンファミリーはテート=ラビアンカ事件の犯人として逮捕されていた。ピューはなにかを知っていたため、その罪の意識に耐えられなかったのだろうか? それともマンソンの命令で殺されたのだろうか? ピューを殺す機会のあった人間は、“ショーティ”・シアの殺人にも関与していた、ブルース・デイヴィスだった。1969年初頭にはロンドンにいたが、その頃とカリフォルニアに帰った1970年はじめの間にどこにいたかについては明らかになっていない。
・2. ジョン・ホート
1969年11月初旬、テート=ラビアンカ殺人事件の3ヶ月後、警察はマンソンファミリーを追い詰め始めていた。10月、車の重窃盗罪でファミリーのメンバー数人を逮捕した。ぶちこまれるとメンバーたちは泣き言を言い始め、最終的にこれがファミリーの破滅につながった。
オハイオ出身のゼロことジョン・フィリップ・ホートは、スパーン・ランチの前のベーカー・ランチでファミリーと同居していた。10月の警察の手入れで逮捕されたひとりで、口を割るのではないかとマンソンに思われたのかもしれない。
1969年11月5日、当時マンソンの信望者グループが住んでいたヴェニスビーチのビーチハウスに警察が呼ばれた。ホートが頭に銃弾を受けて死んでいた。目撃者は皆、ホートがハイになってロシアンルーレットをやったと証言したが、銃を調べるとすべて弾は装填されたままでだった。だがどういうわけか、自殺として処理された。