長崎の町役人から江戸幕府に仕える幕臣へ上り詰めた男!幕末の砲術家・高島秋帆の生涯 (4/9ページ)
天保11(1841)年、秋帆は当時の長崎奉行,田口加賀守を通して幕府に上書(天保上書)を提出します。これには「洋砲採用の建議」が盛り込まれていました。大砲の近代化と兵制改革を訴えた内容です。
高島秋帆、長崎から江戸に出て公開軍事演習を行う
天保12(1842)年には,実際に行動に起こしています。
武蔵国徳丸ヶ原において,日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の訓練を公開演習形式で行いました。幕府の命によるものです。
訓練は、砲兵・騎兵、そして歩兵による銃陣(銃で武装した兵隊からなる陣)を行っています。これは予行演習、本演習と二日間に続いて実施されました。
秋帆は装束に筒袖に裁着袴(たっつけばかま)、頭には黒塗円錐形の銃陣笠を着用して臨んでいます。検分した幕府の役人は「異様之冠物」と称しています。
この演習には、秋帆とその門人たち総勢百人が参加しています。
老中・水野忠邦らが検分者として見学し、多数の大名関係者や蘭学者、砲術家や江戸の住民らが訪れています。人数は一千人を数えたと言われています。
見学者の中には,まだ若い時代の勝海舟の姿もありました。
公開演習は不発が一つもなく,無事成功に終わります。幕府は秋帆が所有する大砲を買い上げ,演習の功績として銀500枚を与えています。
昭和44(1969)年には,この訓練地は高島秋帆にちなみ「高島平」と名付けられました。