長崎の町役人から江戸幕府に仕える幕臣へ上り詰めた男!幕末の砲術家・高島秋帆の生涯 (2/9ページ)
長崎の大村町に、広さ1024坪の邸宅を構えていたといいます。
平穏な時代であれば、安穏な暮らしが約束されていたはずでした。しかし18世紀末になると、国外の情勢は大きく変化していきます。日本近海には、次々とロシア船やイギリス船が出没するようになっていました。自然、国防に対する意識も高まってきます。
当時の日本は鎖国体制にあり、長崎は海外との唯一の玄関口です。同地では特に外国への危機意識が強くありました。
秋帆の父・四郎兵衛は,長崎港の出島の台場(砲台)を任されていました。四郎兵衛は荻野流砲術家・坂本孫之進に学んで砲術を極め、砲術師範となっています。
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秋帆も早くから父・四郎兵衛から荻野流砲術を学び、自身も皆伝を受けるほどの腕前でした。
高島秋帆、長崎でオランダ仕込みの砲術家となる文化11(1814)年、秋帆は高島家の家督を相続。わずか十七歳の若さでした。
その後、町年寄見習となって台場を任され、後には長崎会所調役頭取となっています。秋帆は町年寄や鉄砲方を勤める一方で、大きな危機感を抱いていました。
当時の日本は、鎖国によって欧州文化の輸入が途絶えた状態です。当然、日本の砲術に関する進化も止まり、西洋砲術に大きな遅れを取っていました。
このときの日本の砲術は、軽砲に限定されています。武装した外国の軍艦には、とても歯が立たない状態です。