長崎の町役人から江戸幕府に仕える幕臣へ上り詰めた男!幕末の砲術家・高島秋帆の生涯 (6/9ページ)
さらに耀蔵の背後には,老中・水野忠邦がいたという説がありました。当時水野は天保の改革を遂行していました。水野は,長崎会所の経理の乱脈が銅座における精銅生産に影響することを恐れたともされます。
秋帆は死罪こそ免れましたが,さらに身柄を武蔵国の岡部藩(現在の埼玉県深谷市)に移されました。そのまま同地において幽閉されますが,諸藩は秘密裏に秋帆と接触。洋式兵学の教授が行われていました。
秋帆は幽閉の身でしたが、完全な軟禁状態にあったわけではないようです。秋帆は岡部藩では客分扱いとされ、藩士に兵学を教授したと伝えられています。
さらにこの岡部藩で、新たな出会いもあったようです。
岡部藩領には、血洗島という村があります。同地は、のちに近代日本経済の父と言われる渋沢栄一が生まれ育った土地でした。
秋帆は岡部藩に幽閉された際、渋沢と面識を持った可能性があります。大正10(1921)年になりますが、高島平に「高島秋帆先生紀功碑」が建てられました。その際、渋沢も同企画に賛同した上で寄付をしています。
日本の軍備と経済の基礎をつくった二人は、岡部藩でどのように出会い何を語り合ったのでしょうか。
その一方で、秋帆の門人である江川太郎左衛門らは,幕府に秋帆赦免を願い続けていました。