長崎の町役人から江戸幕府に仕える幕臣へ上り詰めた男!幕末の砲術家・高島秋帆の生涯 (8/9ページ)

Japaaan

講武所教授方頭取,講武所奉行支配などを勤めるに至ります。砲術家として、公的な立場で後進の指導と育成に力を入れていくことになりました。

砲術の重要性は、既に全国の諸藩が認識するところです。当時の幕府は80門の大砲を入手。嘉永7(1854)年の段階では、全国の大名家221家に合計1374門の大砲があったと伝わります。

元治元(1864)年,秋帆は兵学の教練書である『歩操新式』を編纂。すでにこの頃の秋帆は、日本における兵制改革の先駆けとも言える存在でした。

この頃,妻子を江戸に呼んで長屋住まいをしていたようです。十万石の大名に匹敵すると言われた町年寄の身分には戻っていません。あくまで質素な暮らしを続けていました。

しかし幸せな時間は長くは続かなかったようです。晩年の秋帆は、妻子や孫に先立たれています。

慶応2(1865)年,高島秋帆は世を去りました。享年六十九。墓は大円寺にあります。

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