長崎の町役人から江戸幕府に仕える幕臣へ上り詰めた男!幕末の砲術家・高島秋帆の生涯 (7/9ページ)
出獄後の高島秋帆、長崎の町年寄から砲術を教える幕臣となる
嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府は開国政策に舵を切ることになります。
その最前線に立っていたのが、当時老中首座となっていた阿部正弘でした。阿部はかねてから秋帆の砲術家としての知見を見込んでいた人物です。
阿部は、本土を防衛するための砲台建設が急務と考えます。そこで専門家である秋帆に赦免を言い渡しました。
ほどなく秋帆は出獄。11年ぶりに幽閉を解かれて自由の身となりました。その上で海防掛御用取扱の役職に任命され、江川太郎左衛門の手付(下役人)の地位を与えられています。かつては罪人扱いされた秋帆が、今度は幕臣に取り立てられました。
この段階では,攘夷論が根強い風潮にあります。開国政策は忌み嫌われ,批判や迫害の対象とさえなっていました。
しかし秋帆は臆しません。これまでの鎖国政策を誤りだと批判。さらに開国と通商行うべきだと、幕府に『嘉永上書』で上申します。
幕府は本格的な西洋式軍隊を作り始めていました。そこで西洋兵学の実務教育が重要視されていきます。
秋帆はさらに幕府講武所(武芸訓練機関)において、砲術師範に任命。