長崎の町役人から江戸幕府に仕える幕臣へ上り詰めた男!幕末の砲術家・高島秋帆の生涯 (5/9ページ)

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演習の後,秋帆は幕府からは砲術家として信任を受けることとなります。老中・阿部正弘は「火技中興洋兵開基」と秋帆を高く称賛しました。この後、秋帆は幕臣にも高島流砲術を教授する立場となります。

軍事演習の様子を描いた「砲術稽古業見分之図」(ウィキペディアより)

稀代の砲術家・高島秋帆、長崎会所の件で捕らえられる

砲術家として、秋帆の人生は順風満帆に見えました。しかしあるときを境に、運命は暗転してしまいます。

天保13(1842)年,秋帆は長崎奉行・伊沢政義によって突如捕縛されます。そのまま投獄され、江戸に護送されていきました。結果、高島家はお家断絶となってしまいます。

捕縛理由は,長崎会所の杜撰な運営というものでした。秋帆が会所調役頭取であったため,責任を問われたという形です。

しかしこれは、幕府の一部によって仕組まれた事件だったようです。

当時の幕府目付・鳥居耀蔵(伊沢政義の舅)は,蘭学者を敵視する人物でした。耀蔵は洋式軍備に明るく、豊富な資金力を持つ秋帆を危険視します。そこで耀蔵は伊沢と組み,秋帆の逮捕に踏み切ったといいます。

耀蔵は秋帆に「密貿易」と「謀反」という罪を着せ,断罪しようと目論みました。小伝馬町の牢屋敷では,耀蔵が直々に秋帆の取り調べを行うという徹底ぶりを見せています。

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