長崎の町役人から江戸幕府に仕える幕臣へ上り詰めた男!幕末の砲術家・高島秋帆の生涯 (3/9ページ)

Japaaan

秋帆は、蘭学など西洋の砲術の知識を学ぶことを決意。長崎に在留していたオランダの砲兵士官の下で学びます。四年の間にオランダ語をはじめ、西洋の兵器学や戦術などを身につけています。

文化13(1816)年には,儒学者・藤沢東畡(とうがい)が長崎に遊学し、秋帆の自宅に寄宿。そこから三年間、秋帆は東畡の教えを受けています。

秋帆は蘭学だけでなく、儒学においても一流の教育を受けたことになります。多彩な学問の知識を貪欲に取り入れることで、複合的な視点が培う意味があったのかも知れません。

しかしまだ、秋帆の向学心を満たしたわけではありません。私費で砲術に関する文献や大砲、砲弾や小銃などの武器も大量に輸入しています。

天保3(1832)年〜天保10(1840)年の八年間に、前装式野砲6門、前装式臼砲4門、前装式榴弾砲3門、小銃350挺を購入しています。これらの大砲は全て滑空砲(ライフリングが施されていない大砲)で、砲弾は鉄円弾でした。

天保5(1834)年、秋帆は高島流砲術を完成させます。同時に全国から門人を集め、砲術を教授していきました。同年には、佐賀の武雄領主・鍋島茂義が入門。翌天保6(1835)年には、茂義に免許皆伝を与えると同時に、モルチール砲を献上しています。

天保11(1840)年には、門人の数は300人を超えました。門人の中には、伊豆国韮山代官・江川太郎左衛門(坦庵)や幕臣・下曾根信敦が名前を連ねています。

秋帆は砲術家として、日本でも有数の指導者であったことがわかります。

やがて長崎に衝撃的な報告が長崎にもたらされます。清国がイギリスを相手としたアヘン戦争(1840〜1842年)で敗北したのです。

これにより,西洋諸国が日本などの東アジアに進出する可能性が高まっていました。

秋帆は「オランダ風説書」を通して、清国の敗因を分析。その結果、武器の相違と優劣こそが清英両国の勝敗を決定づけたとの認識を持つに至ります。

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