明和の大火の火元の大円寺は、その責を負って76年再建されなかった (2/4ページ)
■明和の大火は火元の大円寺の寺僧による放火が原因だった

大規模火災と言えば、江戸時代の「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が物語るように、かつての江戸市中でも、多くの大惨事が発生した。例えば「江戸の三大大火」のひとつ、「明和(めいわ)の大火」は、当時の武蔵国荏原(えばら)郡下目黒(しもめぐろ)村、現在の東京都目黒区下目黒、JR山手線・東急目黒線・地下鉄南北線目黒駅西口の行人坂(ぎょうにんざか)の脇にある大円寺(だいえんじ)が火元だった。1772(明和9)年2月29日、かねて住職に恨みを抱いていた寺僧・眞秀(しんしゅう)が寺に火を放ったのがきっかけだった。折からの強風にあおられ、火は見る見るうちに燃え広がり、永峰町通り(現・品川区上大崎)・白金・麻布・飯倉・桜田(現・港区麻布)・日比谷・西丸下(現・東京都千代田区)から神田橋・常盤橋(現・東京都中央区日本橋)に及んだ。更に神田小川町・向柳原(現・台東区浅草)・湯島天神・上野・浅草を経て千住大橋(現・東京都荒川区)を焼き、小塚原(現・東京都荒川区)まで達した。しかし再び、夜間に本郷(現・東京都文京区)の芸妓屋から出火し、森川・追分・白山から、谷中・根岸まで広がった。そして翌日、常盤橋外の火が再び燃え出し、日本橋から京橋付近まで、合計628町を焼き尽くし、犠牲者は2万人にも及んだのだ。
この大火は市中のみならず、江戸城内の櫓にまで火が及んだことから、大円寺は76年間、再建が許されなかったが、境内にはこの大火の犠牲者を供養するため、50年の年月をかけてつくられたという、五百羅漢像が残っている。今日、我々の目の前に広がる、無数の羅漢さんのおだやかな風貌から、当時の大惨事は全く想像できない。それが逆に火事の怖さ、そして人の命があっさりと失われてしまうはかなさを感じさせる。