関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家が誰よりも長生きできたのは、島流しのお陰? (1/5ページ)
時は戦国時代末期の慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いに敗れた西軍の副将・宇喜多秀家(うきた ひでいえ)は、必死に逃亡を図ったもののついに捕まってしまいます。
「……さぁて、どうしてくれようか……」
東軍の大将・徳川家康(とくがわ いえやす)はもちろん秀家を殺す気満々でしたが、前田利長(まえだ としなが)や島津忠恒(しまづ ただつね)ら有力大名のとりなしによって仕方なく死一等を減じ、八丈島へ流刑(島流し)の判決を下しました。
「トホホ……ひとまず助かったのはよかったが、生きて再び本国の地を踏めるじゃろうか……」
現代でこそ飛行機で1時間弱(羽田空港発)、フェリーでも10時間半(竹芝桟橋発)で行ける八丈島ですが、当時の感覚では鳥も通わぬ絶海の孤島。一度流されれば、生きて帰れる希望はほとんどありません。
かくして慶長11年(1606年)、当時35歳の秀家は八丈島へ流されたのですが、以降、八丈島は江戸時代を通じて重罪人の島流しスポット(つまり、秀家はその第一号)となります。