父の期待が重すぎた?明治時代、会津藩再興を託された松平容大のエピソード (2/5ページ)
今回はそんな会津藩再興の期待をかけられた松平容大(まつだいら かたはる)のエピソードを紹介したいと思います。
生まれて間もなく藩主となるも……松平容大は明治2年(1869年)6月3日、松平容保の庶子(側室・佐久の子)として江戸で生まれました。
幼名は慶三郎(けいさぶろう)。生まれて間もない11月4日、明治政府から陸奥国(現:青森県。ここでは主に下北半島)3万石の大名に封ぜられます。
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これが後世に言う斗南藩(となみはん)で、その語源は「北斗七星より南はみな帝の治める地(北斗以南皆帝州)=ここは北の果て」という漢詩からとったとか、あるいは「南=薩摩や長州の新政府と斗(戦)う」リベンジの意志を示したなど諸説あるようです。
実際のところは「外南部(そとなんぶ。南部藩領の外れ)」を略してカッコいい斗の字を当てたと言います(漢詩説は出典がなく、藩士・秋月悌次郎の詠んだ漢詩が元ネタとも)。
ただし父・容保は罪人扱いのため同行できず、明治3年(1870年)5月15日、知藩事(※藩主から知事への過渡期的な役職。