父の期待が重すぎた?明治時代、会津藩再興を託された松平容大のエピソード (4/5ページ)
かつて容大もここで学んだのだろうか(イメージ)
父や元家臣らも手がつけられない問題児となってしまった容大は、明治20年(1887年)に学習院を退学。校則違反とのことですが、後に華族(※)の品位を汚したとして処分されかけているあたり、よほどのことをやらかしたのでしょう。
(※)旧大名家や公家に対する身分で、明治17年(1884年)に制定。容大は子爵に叙せられています。
「これは少し、教育の厳しいところへ入れねば直らぬやも知れぬ」
今度は同志社英学校へ入学しますが、ここでも不始末によって退学させられかけますが、会津出身の補育役・兼子重光(かねこ しげみつ)らが嘆願したため、辛うじて免れたそうです。
以来、父親の言うことさえ聞く耳持たなかった容大も、少しは心動かされたのか、重光の忠言だけは聞くようになります。
しかし、結局は同志社英学校も自分で退学してしまい、けっきょく明治26年(1893年)、現在の早稲田大学に当たる東京専門学校を卒業したのでした。
陸軍将校、貴族院議員として「もう敷かれたレールを走るのは御免だ!俺は自分の意志で人生を切り拓く!」
一念発起した容大は卒業後、志願兵として帝国陸軍に入営。日清戦争(明治27・1894年~同28・1895年)に参加、少尉に任官しました。
陸軍当局としても、元(しかも幼少時のお飾り)とは言え藩主や藩知事だった華族を兵卒として扱う訳には行かなかったのでしょう。やがて騎兵大尉にまで昇任し、軍役をまっとうします。