父の期待が重すぎた?明治時代、会津藩再興を託された松平容大のエピソード (3/5ページ)
藩知事とも)の辞令が下った容大は、母と共に五戸(現:青森県五戸町)へ移住しました。
明治4年(1871年)には容保も斗南藩へ預け替え(身柄の預かり先を変更。ここでは実質的な解放)となって陸奥国へ移住、家族と1年ぶりの再会を果たします。
しかし、同年7月の廃藩置県によって斗南藩が廃止。斗南県になると、容大は罷免されてしまいました。それまでのお飾りでよかった藩主・藩知事とは異なり、県政の実務能力を要求されたためでしょう。
陸奥国にいる理由もなくなったため、松平一家は東京府(江戸)へ帰還。かくして容大は、満2歳1ヶ月にして1年9か月の為政者人生に幕を下ろしたのでした。
周囲の期待が重すぎた反動?で……さて、藩という制度がなくなった以上は会津藩の再興も潰えてしまった訳ですが、それでもやはり「会津の殿様」に返り咲くことを諦め切れなかった両親をはじめ旧会津藩士らは、容大に一縷の望みをかけます。
とは言うものの、もはや存在しない制度にすがりついたところで虚しいばかり、周囲の期待が重すぎた反動からか、容大は成長するにつれ非行が目立つようになったようです。
「バカじゃねーの?いくら俺個人が努力したって、無理なモノは無理なんだよ!」
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