討幕への口火に!黒幕・西郷隆盛が仕組んだ薩摩屋敷焼打ち事件とは【維新政府、徳川慶喜の動向編】 (2/7ページ)

Japaaan

(写真:Wikipedia)

1867(慶應3)年12月9日、明治天皇が「王政復古の大号令」を発し、維新政府が産声を上げた。

その由を伝達するため、翌10日に松平春嶽が二条城を訪れた。

慶喜の将軍職辞任を認める。その上で政府費用として徳川家所領のうちから200万石を上納せよ。

春嶽から維新政府の要望を聞いた慶喜は、おそらくは腸が煮えくり返る気持ちであったろう。だが、そうした態度をおくびにも出さず、その日の深夜、二条城に駐留する全将士、約1万人を率いて大坂に退いて行った。

もちろん、「王政復古の大号令」の内容を漏れ聞いた二条城の将士たちが憤激したのはいうまでもない。薩長討つべしとの主戦論に大坂城中は包まれた。

こうした動きに対し慶喜は、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬に兵の暴発厳禁を命じた。さらに、激昂する将士たちには、こう言い聞かせた。

自分には深謀がある。しかし、それを今明かすことはできない。事を成功させるためには、謀が漏れてはいけないのだ。ここは早まるな。

慶喜の深謀とは、強力な旧幕府の軍事力をバックに維新政府に圧力をかけつつ、自分が首班となる議院政権の樹立であった。そのためには、国の内外に対し、いまだ日本の中心は徳川家であることを印象付けねばならない。

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