品川駅の高山稲荷神社にある石灯籠のおしゃもじさまとキリシタン禁教 (3/5ページ)

心に残る家族葬

特に寺請制度の全国的普及によって、民のみならず、寺社をも大きく変貌させたのである。それは、「信仰の制限」にとどまるばかりではなかった。殊に江戸の場合は、京都や奈良のような、長い歴史や伝統を有し、大きな権力や影響力を持つ寺社をも擁する「古都」ではなく、今日で言う「新興都市」であった。高輪を含む江戸周辺地域の大半は、田圃や空き地だったのだ。そこに、キリスト教を禁じているがゆえに、民の「宗教生活」を十分なものにするため、多くの寺社が創建または転入したものの、そうした新興の寺々は、地域の人々の葬送儀礼や墓所の管理だけでは、寺自体を存続維持していくことが難しかった。その「対策」として、享保年間(1716〜1736)ぐらいから、霊験あらたかなエピソードやご利益といった「縁起」を付加し、境内に新たに仏を祀り、「縁日」「御開帳」などの「特別な日」を定め、今日で言う「パワースポット」「聖地巡り」などのように、寺に多くの参詣者を集めるようにしたという。そしてその「ブーム」のピークは、宝暦年間(1751〜1764)ぐらいから、天明年間(1781〜1789)だった。

■寺社の存続を掛けた生き残り戦略

また、それに連動する形で、寺同様、新興の神社も、同様のことを行うようになる。当時は神仏習合であったこともあり、境内仏をお迎えするのみならず、神社内に「摂社末社」という、低い位置づけの境内社を祀った。更には「人」さえもが、「神様」として祀られた。つまり、生前様々な悩みや苦しみを持っていたある人が、死ぬ前に自分を神として祀れば、必ず、多くの人の苦しみが救われるだろうと遺言を残す。その人を、神社内の小さな祠などに祀る。いわゆる「祀り上げ」だ。そして、それに詣でた人が救われる。そしてそれが大流行する。一方で、その「神様」に何の御利益もなければ、「祀り捨て」という形で、廃れてしまう現象が起こっていた。こうした社会情勢を反映する格好で、文化11(1814)年には『願懸重寶記』という、御利益がある江戸の神仏を紹介した、今日で言う「ガイド本」「ムック本」も出版されている。

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