変人扱いされながらも仏道の悟りを開いた曹洞宗の僧・桃水雲渓 (3/5ページ)
すると桃水は、「橋だというのに、どうして中を渡るのか?」と切り返す才知や聡明さ、そして徳を慕って集まる人が多かったことが煩わしくもあり、20歳を過ぎた元和元(1620)年〜寛永5(1628)年頃、江戸に向けて修行の旅に出た。最初は、かつて神田駿河台(現・千代田区)に所在し、学寮・栴檀林(せんだんりん、駒沢大学の前身)を擁していた吉祥寺(きちじょうじ)(きちじょうじ、現・文京区駒込)に身を寄せた。
しかしそこで行われていた学問や修行は、桃水からすると、常々師の圍巖が人間の5つの慾のうち、色慾や食慾、睡眠慾よりも克服しがたいものとして強く戒めていた、評判・名誉・尊敬に心をかける「名慾」、金や物ばかりでなく、自分の利益になるように取り計らおうとする「利慾」という2つの慾を超克するための思想などは全く存在せず、既存の名刹と同じであるように思われ、物足りないものを感じていた。そこで桃水は、下谷(したや、現・東京都台東区)にあった、曹洞宗のある寺院に仮寓することにした。
■ひたすら板塔婆を変え続けた桃水
すると、その寺では、何十本もの板塔婆(いたとうば)を垣根代わりにして、周囲に巡らせていたのだ。古い板塔婆ばかりでなく、真新しいものさえある。しかも寺内には小さな畑があったことから、まき散らされていた肥料で板塔婆が汚されてもいた。それらを目にした桃水は、板塔婆ことストゥーパは、そもそも仏身を顕(あらわ)すものである。そしてそれは、信心深い檀徒による、死者の供養のための墓標だ。それがこんなことに…と、悲しい気持ちになった。しかし桃水は「妙案」を思いついた。町に托鉢に出かけ、そこで集まった浄財で板を買い求め、日が暮れるのを待って、板塔婆を引き抜き、そこに新しい板を建てた。更に引き抜いた板塔婆を抱えて隅田川に行き、読経と共に流し、供養した。しかし桃水はこのことを寺の住職には一言も言わず、毎日黙々とその「ルーティーン」を続けた。
■その行為が認められた桃水
ある時、住職が畑の作物を見ようと、裏庭に出た。