変人扱いされながらも仏道の悟りを開いた曹洞宗の僧・桃水雲渓 (4/5ページ)
すると、畑の周りの板塔婆は全て、板塀になっていた。驚いた住職は寺の若い僧に話を聞くと、全て桃水がやったことだと答えた。それに住職は深く恥じ入り、まだ残っていた周囲の板塔婆をすべて取り払い、新しい板で高塀を作らせた。当時の江戸市中のあまり著名でない、それゆえに富裕でなかった中・小規模の寺では、古い板塔婆を垣根代わりにしていることが「当たり前」であったことから、この寺だけが「罰当たり」な行いをしていたわけではなかったのだが、下谷や浅草界隈の他の寺も、桃水の行いを倣う格好で、古い板塔婆を垣根に代用することを廃止するようになったという。
■桃水の最期
その後の桃水は品川・東海寺の沢庵(1573〜1646)などの名僧に教えを請うた後、肥後に戻る。長崎に赴いて、明から来日したばかりの隠元(1592〜1673)と対面したりもした。師・圍巖の跡を継いだ後、大坂(現・大阪府)、肥後、島原の寺の住職を歴任した。そして「大和尚」の位を得たものの、寛文8(1668)年、60代になってから突如出奔。伊勢、京都、大津などを漂泊した。その際、今日で言うホームレスの人々と共に過ごしていたこともあった。晩年には京都の鷹峰(たかがみね、現・京都市北区)で酢屋を営み、「道全(どうぜん)」または「通念」と称していた。そして天和3(1683)年9月19日に亡くなった。遺偈(ゆいげ。禅僧が行う、臨終の際に残す漢詩)は、
七十餘年快哉(七十余年の生涯は楽しかった)
屎臭骨頭堪作何用(骨の節々から屎尿の匂いがし、もう何もすることができない)
咦真帰処什麼生(い〜!真に帰るべきところ(涅槃)はどうであろうか)
鷹峰月白風即清(鷹峰の月は白く、風は清々しい)
だった。桃水の墓所は京都市伏見区の仏国寺(ぶっこくじ)にあり、墓石には「雲渓水老宿之塔」とだけ、刻まれている。
■変人かどうかなど、それ自体が意味をなさない世界であったなら
もしも将来、「多様性」「多文化共生」が当たり前のものとなり、「変人」が生きやすい世界が実現したとしたら、桃水のような「変人」が「普通の人」、或いは、「あるべき人物像」となるだろう。