奈良の大仏の鋳造と繋がりがあると言われている香春岳の魅力と異様さ (3/5ページ)

心に残る家族葬



このような香春岳産の銅と奈良の大仏との深い関連を物語ることとして、神間歩近くの「清祀(せいし)殿」の存在がある。現在の建物は明治13(1880)年に建立されたものだが、社伝によると、養老4(720)年に清祀殿において、初めて銅の鋳造がなされた。更に銅採掘の前に潔斎・斎戒して、その銅を建物中央に設けられていた鍛冶床で精錬加工して御神鏡をつくり、大分県の宇佐神宮に献納していたという。しかもその宇佐神宮だが、実は東大寺の大仏建立に大きな力を及ぼしていたのだ。

■東大寺の大仏建立との関係性

天平12(740)年2月、聖武天皇(701〜756)は難波に行幸した際、河内国大県郡(現・大阪府柏原市)に所在した智識寺(ちしきじ)の盧遮那仏(るしゃなぶつ)を拝し、大仏造立を思い立った。しかしあまりの大事業であるため、それを心のうちに秘めていた。すると奈良の都からはるか遠く離れた豊前国の宇佐八幡が、「天神地祇を率い、誘って、必ず成就させよう」と託宣を下した。それに感動した聖武天皇は、大仏造立を決意したという。その後、天平勝宝元(749)年10月24日、大仏が完成した。するとその翌月、宇佐八幡が東大寺の大仏を礼拝したいと託宣を下し、12月に平城京に入った。その際、孝謙天皇(718〜770)、聖武太上天皇・光明皇太后(701〜760)、そして文官たちが参集し、僧侶5000人が読経する、盛大な儀式が行われたという。それは単に宇佐八幡の「神威」への敬意のみならず、先に述べた「西海之銅」そのものや、「銅」の取り扱いに長けた当時の新羅系渡来人たちへの感謝を込めたものだったのではないか、と考えられている。

■最澄との関係性

更には、天台宗並びに比叡山延暦寺を開いた高僧・最澄(766または767〜822)にまつわる伝承もある。最澄が延暦22(803)年に、筑紫(現・福岡県)の地で入唐渡海を待っていた折、香春岳の麓に滞在した。その夜の夢に異国の僧が現れ、着ていた衣を開いた。すると、左半身は人に似ているが、右半身は石のようだった。その僧は最澄に、「自分は香春の神だが、願わくは大悲を垂れ、業道(ごうどう)に苦しんでいる自分を救って欲しい。もしも自分の苦患が取り除かれたら、あなたの求法を助け、昼夜守護するだろう」と告げた。
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