京都の清水寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院だった【前編】 (5/7ページ)

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父の刈田麻呂は、藤原仲麻呂(恵美押勝・えみのおしかつ)の乱が起こると、孝謙天皇側の武官として参戦します。この戦いで、刈田麻呂は仲麻呂の三男訓儒麻呂(くずまろ)を射殺し、従四位下の位を得るとともに、坂上氏を地方貴族から中央貴族に押し上げることに成功しました。

 田村麻呂の父・坂上刈田麻呂。中央貴族としての坂上氏を確立した。(写真:Wikipedia)

785年、坂上田村麻呂は28歳にして従五位下に昇進し、軍事貴族としての道を歩みだします。そして、桓武天皇が大伴弟麻呂を征東大使に任じた794年の第二次蝦夷征伐で、副将軍である征東副使を命じられました。

この時、田村麻呂は近衛将監・少将(正五位下)という官位にあり、桓武天皇側近の武官として、天皇から相当な信任を得ていたようです。

この時代の人々の田村麻呂への評価は、以下のようなものでした。

「武勇は人に勝る。しかし、それに奢ることなく性格は寛容で、部下をとても大切にする」

そうした田村麻呂の人柄は、桓武天皇が蝦夷征伐軍を組織するにあたり、その軍士らの検閲にあたらせていることからも伺えます。

797年、桓武朝では実質上最後となる第三次蝦夷征伐が計画されます。

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