京都の清水寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院だった【前編】 (6/7ページ)
この時、田村麻呂は征夷大将軍を任じられ、その4年後の801年、4万の軍を率いて東北に向かいました。
この戦いで、かつて朝廷軍を完膚なきまでに破った阿弓流為(あてるい)と母禮(もれ)が降伏します。田村麻呂は彼らを伴って平安京に凱旋するものの、両雄の器量を認めたうえで、今後の蝦夷経営のために役立たせようと、朝廷に2人の助命を嘆願しました。
阿弓流為、母禮が処刑されたとされる地(枚方市)に残る「伝阿弓流為母禮之塚」。(写真:Wikipedia)
しかし、彼らに対して非常な憎悪を抱く朝廷首脳部は、2人を許すことなく処刑してしまいました。まだ公卿(参議以上の参政官)の地位になかった田村麻呂は、おそらくは自らの力不足を実感し、さらに阿弓流為(あてるい)と母禮(もれ)をはじめとする蝦夷征伐で命を落とした人々への慚愧の念に堪えなかったことでしょう。
その後、田村麻呂は陸奥国に赴任し、鎮守府将軍として蝦夷経営に関わりました。802年には、東北経営の拠点である胆沢城に僧侶を招き、蝦夷征伐で没した敵味方の冥福を祈ったと記録は伝えています。