京都の清水寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院だった【前編】 (3/7ページ)
朝廷は、この金を手に入れることを一つの目的として東北攻略を進めたのです。
しかし、東北にも人間は住んでいます。東北経営は、その人々を征服しなければ成り立たなかったのです。朝廷は、東北の民を「鬼(おに)」とみなし、「蝦夷(えみし)」と呼んで卑下しました。
「東北に住む奴らは、朝廷に逆らう反逆の輩で、文化の低い野蛮人だ」
このようなレッテルを張り、蝦夷征伐は正義の戦いであることを印象付けたのでした。
朝廷は、奈良時代から、度々東北に軍を送り、多賀城をはじめとする橋頭保を築いてきました。桓武天皇は、平安京造営と蝦夷征伐を二大政策とし、東北に大軍を発したのです。
もちろん、こうした朝廷に対し東北の民達は激しく反発しました。そして、胆沢を拠点とするリーダーの阿弓流為(あてるい)とその同志である母禮(もれ)が指揮をとりはじめると、朝廷軍は大敗を喫することになったのです。
そんな状況を打開するために、桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命します。これを境に、朝廷軍は蝦夷を圧倒し、東北経営を進めて行くことになります。
まずは、ここまでの歴史をお知りおきください。この経緯が、清水寺建立に深く関わっていくと思われるからです。