源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その4】 (2/9ページ)
出陣する藤原経清を送り出す妻の有加一乃末陪。[歴史公園えさし藤原の郷](写真:T.TAKANO)
次々に落とされる安倍氏側の城柵清原氏の参戦により、形勢は一気に逆転しました。源頼義はこの機に乗じて貞任・経清征討へ軍を動かします。
頼義:いよいよ機は熟した。全軍、出陣じゃ!よいか皆の者、こたびこそ貞任と経清の首を挙げるぞ!
1062(康平5)年8月、国府軍は貞任の弟宗任と叔父良照が守る小松柵を攻撃します。熾烈極まる攻城によく耐えた宗任も、ついに支えきれず敗走しました。
しかし、奥六郡深くまで進撃してきた国府軍の兵糧が乏しくなったと判断した貞任は、9月、緒戦の劣勢を覆そうと頼義本陣に奇襲をかけます。この戦いは6時間にもおよぶ激戦となりました。
だが、時間が経つにつれ数に勝る国府軍が優勢となり、貞任は退却を命じます。頼義は追撃の手を緩めず、勢いに乗じて、石坂柵・衣川関・藤原業近柵と次々に安倍氏支城を落としていきました。
貞任:このうえは厨川の柵に籠城だ。急ぎ安倍・藤原の一族郎党は厨川に向かへ!
貞任と経清は、安倍一族と藤原一族を集結させ、奥六郡最北の厨川の柵に籠城しました。
