「鎌倉殿の13人」平家を追い出し、上洛を果たしたものの…第14回「都の義仲」予習 (5/8ページ)
そのうち頼朝の耳に入るだろうから、恥じないよう悔いなく戦え!」
かくして義仲は後白河法皇の掻き集めた僧兵らを打ち破り、ついには後白河法皇を幽閉。京への一番乗りを果たしながら、鎌倉の頼朝に上洛の大義名分を与えてしまうのでした。
あまりの下品さに愛想を尽かされる(前略)兵衛佐はかうこそゆゆしくおはしけるに、木曽の左馬頭、都の守護してありけるが、起居の振舞の無骨さ、物言ふ詞続きのかたくななる事限りなし。理かな、二歳より信濃国木曽といふ山里に三十まで住み慣れたりしかば、いかでか知るべき。
※『平家物語』巻第八「猫間」より
かつて平治の乱で敗れるまでは都で育ち、きちんと教養を身に着けていた頼朝に対して、義仲は何と粗野で下品なことか……まぁ無理もありません。
2歳の時に大蔵合戦(久寿2・1155年)で父が殺され、木曽の山奥に隠れ住んで20数年以上。都人と渡り合える教養を身に着ける余裕などなかったでしょう。
義仲の下品なエピソードと言えば、もう一つ。ある日、猫間中納言(ねこまちゅうなごん)こと藤原光隆(ふじわらの みつたか)が義仲の元を訪ねました。
「猫間殿がお見えになりました。お伝えしたいことがあるのと仰せです(猫間殿の見参にいり、申すべき事ありとていらせ給ひて候ふ)」
郎党からの報告を聞いて、義仲は爆笑。