「鎌倉殿の13人」ついに始まる!源頼家の暴走…第28回放送「名刀の主」予習 (7/8ページ)
それでも鎌倉殿はいざとなればケツを持ってくれると信じたからこそ、今まで汚れ仕事にも手を染め続けたのです。
にもかかわらず頼家は、利用するだけしておいて、いざ御家人たちから反発を受ければ「俺知らね。お前のせいだからな」と丸投げしてしまいます。
「刀は切り手によって名刀にもなれば、なまくらにもなる」
かつて景時は、そんなことを語っていました。結局、頼家には景時という名刀を扱いきれず、また景時自身も頼家が持ったことで「なまくら」になってしまったのでしょう。
(大殿ならば、こうはなされぬ……いや、愚痴であろうぞ)
景時はやり切れぬ怒りを吞み込み、一切の弁解も謝罪もせず、鎌倉を去って所領のある相模国一宮(現:神奈川県寒川町)へ引きこもったということです。
終わりにその後、景時は一度こそ鎌倉への復帰を果たすものの、今度は鎌倉から追放されてしまいます。
12月9日 鎌倉へ帰参
12月18日 評議の結果、景時の追放が決定。和田義盛と三浦義村によってその館は破壊され、その跡地と材木は永福寺に寄付された。
※『吾妻鏡』より要約
そして正治2年(1200年)1月20日、梶原一族は「謀反の疑い」によりことごとく滅ぼされてしまったのでした。