歌舞伎「紅葉狩り」で鬼女を倒した平維茂を祀る長野県上田市の将軍塚 (3/6ページ)

心に残る家族葬

そこで紅葉は琴を教えていたのだが、巧みな演奏と美貌が評判となり、清和(せいわ)天皇(850~881)の第六皇子・貞純(さだずみ)親王(873?~916)の子、源経基(つねもと、916~961)に仕えることになった。経基の寵愛を受けて懐妊した紅葉は、御台所(みだいどころ、正妻)が疎ましくなり、術を使ってその座を奪おうと企てた。しかしそれが比叡山の高僧に見破られてしまい、天歴10(956)年、紅葉一家は信濃國戸隠山(現・長野県長野市)に追われてしまった。

■平維茂を筆頭に鬼女討伐隊が立ち上がった

ここで終わる紅葉一家ではなかった。紅葉は男子を出産し、経基の「経」を取って「経若丸」と名づけ、村人たちに対して、「自分は源経基に仕えていた女房だったが、経基に寵愛されていたため御台所から嫉妬され、無実の罪でこちらに流された」と称し、「経若丸が成人した暁には、必ず京へ戻る」と豪語していた。そして近在の子どもたちに縫い物や算術・習字などの手習いを教えたり、加持祈祷を行って、病人治療をしたりしていた。それゆえ「生き神様」と人々の崇敬を得ていた紅葉だったが、「鬼」の本性ゆえに、紅葉は夜になると男装し、父母を手下に従え、金銀を奪うようになる。そうした中、悪名をとどろかせていた盗賊団の首領たちや、「七十人力」の鬼・おまんまでも配下にしつつ、都に戻るための軍資金獲得と勢力拡大を目指し、略奪行為を続けていた。彼らの「乱行」はとどまることを知らず、果ては、捕らえた村人の生き血をすすり、肉をあぶって食らうなどの酒食にふける状況に至ったことから、国守から冷泉天皇(950~1011)に報告されることとなる。そこで「鬼女」討伐のため、平維茂が信濃守に任命された。安和2(969)年7月、250余騎を従えた維茂は、出浦(いでうら)郷(現・長野県上田市)に向かった。先遣隊、後詰(あとづめ。先陣の後方に控える軍隊)はいずれも暴風雨や火の玉、洪水など、紅葉の妖術でものの見事に退けられていた。

■鬼女と平維茂の死闘

そこで維茂は、天長2(825)年、慈覚大師円仁(えんにん、794~864)によって開山された霊場・北向(きたむき)観音堂に十七日間、参籠祈願した。その満願の夜、維茂の夢枕に白髪の老僧が現れて、維茂を雲に乗せ、紅葉一派の居場所を眼下に見せた。

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