源頼家に妻を奪われたが…泰時の盟友・安達景盛(新名基浩)が剛腕政治家に成長するまで【鎌倉殿の13人】 (5/6ページ)
(ちょっと言いすぎかも知れませんが、少なくとも景盛にとっては焦れったかったのでしょう)
日來高野入道覺地連々參左親衛御第。今日殊長居。内々有被仰合事等云云。又對于子息秋田城介義景殊加諷詞。令突鼻孫子九郎泰盛云云。是三浦一黨當時秀于武門。傍若無人也。漸及澆季者。吾等子孫定不足對揚之儀歟。尤可廻思慮之處。云義景。云泰盛。緩怠禀性。無武備之條。奇怪云云。
※『吾妻鏡』宝治元年(1247年)4月11日条
【意訳】最近、高野入道がちょくちょく時頼の館へやって来る。今日は特に長居して内々の打ち合わせをしていった。
また息子の義景をボロッカスに批判し、孫の泰盛もケチョンケチョンに貶されたとか。
曰く「三浦は武力にモノを言わせて横暴の限りを尽くしておる。油断しとると今に奴らの軍門に屈することになる。だと言うのに、お前らと来たらどんだけ怠け者なのか、武力を養うどころか戦支度の一つも出来とらんとはどういうことじゃ!」とのこと。
とまぁ、大層なお怒りよう……もういい、お前らには任せておけぬ!とばかりに景盛は三浦一族に対して挑発の限りを尽くして合戦に持ち込もうとするのでした。
一方の三浦一族でも棟梁の三浦泰村(みうら やすむら。三浦義村の次男)は北条&安達一族との争いは望んでいません。