忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・前編【どうする家康】 (2/8ページ)

Japaaan

【天野氏略系図】

遠景-政景-景経-遠時-経顕-経政-景隆(近江守)-秀政-景政-景顕-景保-景秀-定景-遠直-景行-遠房-景隆(甚右衛門)-康景……

※『寛政重脩諸家譜』巻第八百七十七「藤原氏 爲憲流 天野」より

幼名は不詳、後に元服して通称を又五郎(またごろう)・三郎兵衛(さぶろうひょうゑ)、諱を景能(かげよし)と称しました(後に康景と改名。本稿では便宜上「康景」で統一)。

幼いころから松平広忠(まつだいら ひろただ)に仕え、広忠の嫡男・竹千代(たけちよ。後の徳川家康)の小姓となりました。

5歳年少(天文11・1542年生まれ)の竹千代にとって、お兄さんのような存在だったのかも知れません。

天文16年(1547年)、竹千代が6歳の時に今川義元(いまがわ よしもと)の人質として駿河国(現:静岡県東部)へ送られることになった時、康景はこれに随行。お供はほか2名しかおらず、よほど信頼されていたのであろうと思われます。

しかし道中で家臣の戸田康光(とだ やすみつ)が裏切ったことによって行先を変更。尾張国(現:愛知県西部)を支配する織田信秀(おだ のぶひで。信長の父)の元へ送られたのでした。

「忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・前編【どうする家康】」のページです。デイリーニュースオンラインは、高力清長馬場小平太牛田行正植村正勝本田重次カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る