忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・前編【どうする家康】 (7/8ページ)
『織田軍記』によると双方の被害は徳川535名、武田409名とのことで、やはり敗戦で疲労困憊していた無理がたたったようです。
※なお、この犀ヶ崕の夜襲は当時の史料に記録がなく、江戸幕府による史料では「十数挺の鉄砲とわずかな兵で武田方を攪乱し、多数を崖から追い落とす戦果を上げた」など荒唐無稽な内容となっています。
とは言え、ただ負けてばかりでは収まらない三河武士の意地を見せつけたことは確か。この時の武勲により、康景は三河国渥美郡に200貫の知行を給わったのでした。
下女が夢に見た連歌を披露さて。いかに戦国乱世の武士と言っても、年がら年中戦ってばかりではなく、プライベートな時間や楽しい出来事だって当然あります。
康景は牛田庄右衛門行正(うしだ しょうゑもんゆきまさ)の娘を正室に迎え、天正2年(1574年)には嫡男の天野康宗(やすむね)を授かりました。
また天正3年(1575年)正月には、こんな出来事があったとか。康景に仕えている下女が、不思議な夢を見たと言うのです。
「何か知らねえけど、夢の中でみんなが五七五七七で話をしてんですよ。おらすっかり覚えちまって……」
内容を聞いてみると、複数名での和歌をつないだ連歌でした。
「不思議なこともあるものだ。このめでたい(※)連歌は徳川家の吉兆やも知れぬ。さっそく御屋形様へお知らせいたそう」
(※)内容は不詳。ただし不吉であれば祝賀の席で披露されることもないでしょうし、めでたいものと推測。
「ほぅ、これはよい。